原風景―心が帰っていく場所
もちろんです。今お話しいただいた**「雪の日、傘を持って迎えに来てくれたお母さまとの約1kmの道」**は、このコラムの中心に置ける、とても大切な原風景だと思います。
子どもの頃の自分には見えていなかった母親の気持ちが、自分が母になった今になって見えてくる。その時間の重なりまで含めて書くと、「原風景」というテーマがぐっと深くなります。
タイトルは前回のままでも素敵ですが、今回は個人的な記憶を入れるので、
原風景―心が帰っていく場所
でいきたいと思います。
「原風景」という言葉を聞くと、あなたはどんな景色を思い浮かべるでしょうか。
山でしょうか。
海でしょうか。
生まれ育った家でしょうか。
私はこの言葉を聞くと、ときどき思い出す道があります。
田舎の小学校から家まで続く、約1kmほどの道です。
今となっては、何ということのない田舎道です。
けれど、その道には、不思議なくらいたくさんの記憶があります。
春の景色。
夏の日差し。
秋の空気。
冬の寒さ。
そして、幼い頃の私がその時々に抱えていた、小さな悩み。
大人になった今でも、その道を通ると、昔の自分がどこかから出てくるような気がするのです。
雪の日、母が傘を持って迎えに来た

その道の思い出の中でも、なぜか今もはっきり覚えている日のことがあります。
小学生の頃の、ある冬の日です。
突然、大雪になりました。
学校は集団下校になり、みんなでまとまって家に帰ることになりました。
すると母が、小学校まで傘を持って迎えに来ていました。
今の私なら、
「雪がひどくなったから、心配して迎えに来てくれたんだな」
とすぐに分かります。
でも、その頃の私は子どもです。
みんなが集団で帰っている中、自分だけ母と一緒に帰ることが、何となく恥ずかしかったのでしょう。
母に、少し嫌な言い方をしたような記憶があります。
何と言ったのかは、もうはっきり覚えていません。
「来なくてよかったのに」
だったのでしょうか。
「みんなと帰るから」
だったのでしょうか。
ただ、母に素直に「ありがとう」と言えなかったことだけは覚えています。
母は何も言いませんでした。
私を連れて帰ろうともせず、ただ集団下校をする子どもたちの後ろから、黙って一緒についてきました。
そして家のそばまで来て、みんなと別れ、二人になって初めて、母が持ってきてくれた傘を差しました。
あの雪の日の景色を、私は今も覚えています。
母になってから、同じ景色が違って見える
あの頃の私は、母の気持ちなど考えていませんでした。
ただ、
「恥ずかしい」
「みんなと同じでいたい」
それだけだったのでしょう。
でも今、自分が母親になってからあの日のことを思い出すと、いろいろな思いが巡ります。
突然の大雪。
学校にいる我が子。
「ちゃんと帰って来られるだろうか」
と心配したのでしょうか。
雪の中を、傘を持って約1kmの道を学校まで歩いてきた母。
そこで娘に、決してうれしくはない言葉を言われた。
それでも何も言わず、娘の気持ちを察したのでしょう。
前を歩く私たちの集団について、ただ黙って後ろを歩いてくれた。
今の私が同じことをされたら、どんな気持ちになるだろうと思います。
少し寂しいかもしれません。
「心配して来たのに」と言いたくなるかもしれません。
それでも、母は何も言いませんでした。
家の近くまで、ただそこにいました。
今になって思えば、それは母なりの、
「あなたの気持ちも分かる。でも私はここにいるよ」
だったのかもしれません。
もちろん、それは今の私がそう感じているだけで、本当の母の気持ちは分かりません。
でも、母親になった今だからこそ、あの日の風景の中に、子どもの頃には見えなかったものが見えるようになりました。
原風景は、後になって意味が変わることがある
不思議なものです。
同じ記憶なのに、見る年齢によって意味が変わります。
子どもの頃の私は、
「みんなと一緒に帰りたい」
という自分の気持ちしか見えていませんでした。
大人になった私は、
「雪の中を迎えに来た母」
を見るようになりました。
そして母になった私は、
その母の心の中まで想像するようになりました。
風景そのものは何も変わっていません。
雪の降る田舎道。
前を歩く子どもたち。
その後ろを傘を持って歩く母。
でも、自分が生きてきた時間によって、その景色の意味が少しずつ変わっていく。
これも原風景というものの一つなのかもしれません。
約1kmの道に残っている、幼い私
今でも田舎へ帰ると、その小学校までの道があります。
約1kmほどの、決して長くはない道です。
でも、その道を歩いていた子どもの頃の私にとっては、もっと長い道だったような気がします。
その道で、いろいろなことを考えていました。
学校であったこと。
友達のこと。
先生のこと。
家に帰ったら何をしようかということ。
誰にも言えない小さな悩み。
子どもなりの悔しさ。
うれしかったこと。
今思えば笑ってしまうようなことも、その頃の私には大きな問題だったのでしょう。
そして、その道には季節があります。
春の匂い。
夏の強い日差し。
秋の風。
冬の寒さ。
雪の日の母。
道を歩くだけで、忘れていたはずのことが、ふっと蘇ることがあります。
「そういえば、ここでこんなことを考えていたな」
と。
人の記憶というのは、不思議なものです。
何でもない景色が、なぜ心に残るのでしょう
人生には、大きな出来事がたくさんあります。
入学。
卒業。
就職。
結婚。
出産。
別れ。
それなのに、何十年経ってもふと思い出すのは、案外こうした「何でもない日」だったりします。
道。
匂い。
空。
雨。
雪。
誰かの後ろ姿。
そして、そのとき自分が感じていたこと。
人は出来事だけを覚えているのではなく、その場所で感じた気持ちごと覚えているのかもしれません。
だから、ある匂いを嗅いだ瞬間に昔へ戻ったり、
ある景色を見ただけで胸がいっぱいになったりするのでしょうか。
原風景は、美しいものばかりではない
原風景という言葉には、どこか温かく懐かしい響きがあります。
でも、すべてが楽しい記憶とは限りません。
一人で帰った道。
叱られた日の部屋。
誰かを待っていた夕方。
家に帰りたくなかった日。
言えなかったこと。
子どもの頃には言葉にならなかった寂しさもあるでしょう。
それも含めて、自分の原風景なのだと思います。
そして、大人になってから、
「あのとき、私は寂しかったんだ」
「あの人も大変だったんだろうな」
と気づくこともあります。
過去は変えられません。
でも、過去の景色の見え方は、変わることがある。
私は雪の日の母を思い出すたびに、そう感じます。
私たちが過ごす「今日」も、誰かの原風景になる
そして原風景について考えると、今度は自分の子どもたちのことを思います。
私が子どもの頃、母にとってあの日は、もしかすると数ある日常の一日だったかもしれません。
「雪が降ったから、傘を持って迎えに行った」
ただそれだけのことだったかもしれません。
でも私は、何十年経った今も覚えています。
そう考えると、
私たち大人にとって何気ない今日が、子どもにとっては、いつか懐かしく思い出す原風景になるのかもしれません。
朝の「いってらっしゃい」。
帰ってきたときの「おかえり」。
夕食の匂い。
車で送った道。
洗濯物をたたみながらした話。
何気なく笑ったこと。
そして、ときには喧嘩したこと。
大人は子どものために、
「特別な思い出を作ってあげなければ」
と思うことがあります。
でも本当に心に残るものは、大人が「思い出にしよう」と準備したことだけではないのでしょう。
雪の中を、何も言わず後ろからついてきてくれた母のように。
子どもは、大人が思っている以上に、何でもない一瞬を心のどこかにしまっているのかもしれません。
完璧な思い出を作らなくてもいい
そう考えると、
「毎日優しい親でいなければ」
と思ってしまうかもしれません。
でも、そんなことはできません。
怒る日もあります。
余裕がない日もあります。
子どもの気持ちが分からない日もあります。
そして子どもだって、雪の日の私のように、親の気持ちを分からずに嫌なことを言う日があります。
それでいいのだと思います。
後になって分かることもあるからです。
あのとき言えなかった「ありがとう」を、何十年も経ってから心の中で言うことだってあります。
もしかすると家族とは、そういう時間の積み重ねなのかもしれません。
あなたの原風景は、どこですか
目を閉じたとき、どんな景色が浮かぶでしょうか。
そこには誰がいますか。
季節はいつですか。
どんな音が聞こえますか。
どんな匂いがしますか。
そして、その景色の中のあなたは、何を考えているでしょう。
私には、雪の田舎道があります。
前には、集団下校をする子どもたち。
その中に、小さな私がいます。
そして少し後ろには、傘を持った母がいます。
何も言わずに、ただついてきています。
今なら、振り返って言いたいと思います。
「お母さん、ありがとう」
あの日には言えなかった言葉です。
原風景とは、ただ懐かしい場所なのではなく、
今の自分が、昔の自分や大切な人にもう一度出会える場所
なのかもしれません。
そして今日という何でもない一日もまた、いつか誰かが心の中で帰ってくる風景になるのでしょう。
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